事件は現場で起きている#3 天使のしっぽ
護身術について思う
聞き込みでもしているのだと思った。
わたしは曖昧に頷きベンチに腰をかけた。もしかすると、常識のある大人なら、ここで座るなんてことはしないのかもしれない。失礼にあたるから。あるいは、そんな気分にはなれずに。でも、わたし座る。そういう性分なのだから仕方ない。
「ここが事件現場なんです」と、闇男が言う。
後ろに待機していた、別の男がブランコに近づく。ブランコでカップルがケンカでもして、ケガをさせたのだろうか。
闇男は何も言わずわたしを見る。いや、見ているような気がする。なんだろう。何か言えばいいのに。彼の顔が判別できない。沈黙。
「さっきの、あれって、本当に警察手帳なんですか?」と、余計なことを言い出しそうになる。そんなことを突き詰めてはいけない。もし悪党だったら拉致される可能性だってある。大きな声を出せば安全だろうか。闇黒の車までは距離がある。
わたしは体力には自信がないけれど、そこそこ体が大きい。電車で座っていて立ち上がると、時々ぎょっと見上げられることがある。だから、簡単に抱きかかえられないかもしれない。それにしても、拉致されそうになったときの振りほどき方を学んでおくと安心かもしれない。帰ったら「合気道」の検索をしよう。
でも、ともかく、今そんなことになったら、うりに危険が及ぶ。道の真ん中に放り出されるかもしれない。万が一、蹴られでもしたら絶対に許すことなどできない。ダメだ。愛するうりのためにもここは気付かないふりだ。余計なことを知ったら巻き込まれるのがセオリーなのだから。
ふと闇男と目と目が合う。輪郭がぼやける。
天使は決して慌てない
「あの」。闇男が口を開く。
こういう時、あまり相手に集中してはいけない。心と体の死角が増え、視野が狭まるから。だから、視線をうりに移す。犬を見ると血圧が下がり、心拍数が下がることは科学的にも証明されている。アニマルセラピーのボランティアをしていた頃、犬達が引き起こす「奇跡」の天使ぶりには、何度も感動して涙がでそうになった。
「あの。あなたが座っているそのベンチ」と、闇男。
うりは静かに座って空を見上げている。茶色の後頭部。裏側だけが黒い三角耳をこちらに向けている。素知らぬふりをして、しっかり様子を窺っている証拠。泰然自若。素晴らしい。わたしも真似して見上げると、翼を広げた鳥のような雲が広がっていた。マジシャンが出した白鳩か。
「あの」再び闇男
「はい」
「そのベンチが事件現場なんです」
「えっ」
「そのベンチで事件が起きているんです」
えっ。いつになく素早く立ち上がる。なになに、座っちゃったじゃない。どこかに血とかついてない?なにかの呪いとか大丈夫?はやく言ってよ!いや自分のせいか?
苦手の克服には知識と経験
わたしは血には滅法弱いのだ。注射針が自分の肌に刺さるところも、ちゅーっと血が抜かれていくところも、生まれてこのかた一度だって見たことがない。もし、うりが大量の血を流したら、きっとパニックになる。
それではいけない。だから、万が一血が流れても、冷静になれるよう応急手当の技術と知識を学んだ。苦手な場面でパニックを回避するには、正しい知識とリハーサルが一番の解決策だと誰かが言っていた。
「さぁ、行こう。」うりを促し急いで離れる。スカートのお尻はほろわない。何かが手につく方が気持ち悪いから。帰ったらすぐに洗濯をすると誓う。細かく観察はせずに、洗濯機に投げ入れよう。
闇男には何も聞かずに公園を離れる。どうせ聞いたところで何も教えてくれないだろう。街角のスピーカーから4時半を告げる夕焼け小焼けのメロディが鳴る。と、同時に、もう一台の車からブラックメンたちが降りてくる。スルスルと素早く。顔のわからないブラックメンたち。
事件ってなに。そんな多人数で来るって、なにごとよ。
つづく
文・白田祐子